「死ぬ番が回ってきた」のか?
昨夏に子どもが生まれた。それはそれは可愛いのだ。生まれた直後もかわいかったが、色々と動き回る今の時期も大変可愛い。きっとこれからもずっと可愛いのだろう。
さて、親になった人にどのように実感しているかを尋ねると、「いよいよ自分の死ぬ番が回ってきたと思うようになった。」と答える人がいる。「子どもを食わせるためには何だってする。」という人はもっと多いだろう。俯瞰して見ると、自分自身の人生で成し遂げたいことや求める生活などよりも子どもの生活や将来のための自己犠牲を厭わないという意味合いにおいて、どちらも類似している。ここで、天邪鬼な僕は思ってしまう。「自分の人生と子どもの人生は両立できないのか?」と。
先に断っておくが、決して先ほどの発言をする人の価値観を軽んじるものではない。あくまで、この発言の趣旨を理解し、僕自身の人生観にどのように吸収すると良いのかを考えたいのだ。
例えば、海で溺れていて、自分と子どものどちらか一方しか助けられないとしたら、おそらく僕も我が子の命を優先するだろう。その意味で、「死ぬ番が回ってきた。」という言葉の意味するところは理解できなくもない。
しかし、今度は視点を入れ替えて子どもの立場になってみたい。子どもからすると、この場面は、我が子を生かすために父親が命懸けで生き様を見せた瞬間であり、おそらくその光景は生涯子どもの記憶に刻み込まれるはずだ。
かくいう僕も、ここまで極端ではないものの似たような記憶がある。高校生の頃、正月の初売りの行列に並んでいる時に、僕らの前に割り込んだ大学生風の若者に対して父が注意したことがあった。父は少し声が震えていて緊張しているようにも見えたが、子どもの前で勇気を出して声を上げたに違いない。あの時の行動に関して、僕は今でも感謝・尊敬している。
つまり何が言いたいかというと、我が子のために自己犠牲をすることは、決して自分自身の優先順位を下げることと同値ではないのだ。我が子のために行動することで、その生き様は子どもにしっかりと刻まれ、時空を超えて生き続ける。
そのような解釈をすると、親になったからといって必ずしも自己犠牲を強いる必要はないといえよう。例えば辛い仕事を生活のために我慢することは一見すると家族のためを思っているように見えるが、一方でその仕事を辞めて給料は下がるけれども充実した仕事をしてみてはどうだろう?以前よりも晴れやかな表情で職場に向かう親の姿は、きっと子どもの心に刻まれないだろうか。
人生を充実させる秘訣がある出来事をどのように意味付けしていくかにあるとしたら、親が自らの人生を楽しみながら切り開いていく姿を見せることが、子どもにとって最も良い教育になるのではないだろうか。「死ぬ番が回ってきた。」なんて言うのは僕にとってはまだまだ早すぎる。人生の悲喜交々に正面からぶつかっていって、あわよくば子どもの中で何かが刻まれればそれで良いのだ。